>>20
すみません。父は70代でした。
よろしくお願いします。
>>17
34歳です
>>15
みていただきありがとうございます。
文章を読んでいてトリハダが立ちました。リビアン様がお話した男性は恩師だと思います。
私は女性ですが、学生時代に女の子らしい格好はしてなくジーンズにトレーナー、Tシャツのような女っ気のない服装してましたし、中身も女の子らしさはなかったです。それが影響しているのでしょうか。
恩師は50代前半で病気で亡くなりました。眼鏡もしていましたし、骨格は細見な方です。口先でしゃべるというのもそうでした。もそもそしゃべるというか、持論を集中して淡々と熱く語りだす感じでした。見た目は明るい感じではないですが、大阪出身で話しだしたらよくしゃべりますし、お酒の場も好きでした。
先生のメッセージも本当に納得と言いますか、「教室で討論するんじゃなくて現場の声をきけ」というのがモットーでして、地域の人との接点やコミュニケーションを大事にしてました。先生自身が常に勉強だという姿勢を見せてくれました。
なにより、リビアンさんの文章が先生の語り口調そのままです!!びっくりしました。
先生とは身内でないので出てきてくれないのかもしれないかな、と思ってましたがリビアンさんの前に現れてくれた人は先生で間違いないです。
お墓参りにいきたいと思ってましたが、お寺の場所を知ってる友人と色々あって連絡取りづらくなってしまい、数年経ってしまいました。
心のなかで先生を思い出して手を合わせたいと思います。久々に先生の持論を聞けて嬉しかったですし、学びについて考えようと思いました。
本当にありがとうございました。
>>23
ようちゃんさん
恩師の方だったのですね。来てくださって良かったです。
やはりお酒お好きなんですね。後半はちょっとほろ酔いのような口調で話されてましたので。(失礼かと思い言いませんでした)
検証して下さりありがとうございました。
リビアン様、よろしくお願いいたします。
私 33歳
一昨年亡くなった祖父から、私と母へのメッセージをお願いしたいです。
コロナ禍で満足に面会もできず、満足して逝ったのか、寂しい思いをしていて家に帰りたかったのかが気がかりで…。
これからご覧になる方へ
一旦ここで締め切らせていただきます。
溜まってしまって義務になってしまうと上手くいかないと思うので💦
サイドの募集はまた改めて書かせていただきますね!
>>12
ななさん
来てくださったおばあさまは、小柄で丸顔のかわいい雰囲気のおばあ様だったようですが、
この方で合っているでしょうか。
穏やかで、割と物静かな方だったように思いますが、ニコニコと笑顔がとても素敵で、
周りの方はみんなおばあ様のことが大好きだったのではないでしょうか。
前に出すぎない、奥ゆかしいタイプの女性だったようです。
手芸がお得意だったのか、色とりどりの刺繡糸や編み物などをしている様子を見せてくださいました。
また、ななさんを膝にのせて耳かきをしている姿も。ななさんは少し痛がっていたみたいですが・・・。
お小遣いをくれるときは、お札のお金を小さく折りたたんで、こそっとくれていたようです。
ななさんが、今どきの子供として成長していく姿を、頼もしく、またうらやましくも思いながら見ていたようです。
自分もこんな自由な時代に育っていたらなぁ~なんて思いながら、成長を見守られていたようです。
ななさんへのメッセージは、まるで小さい子に話すような口調でした。
(実際の口調や呼称などは違っているかもしれませんが、このような感じです)
「ななちゃん~?おばあちゃんに会いたがってくれてありがとうね。おばあちゃんはあなたに何にもしてあげられなかったね~。喜びや楽しみをもらうばっかりで。でもあなたがいてくれたことは嬉しかったよ。本当にありがとう~。もっともっと女の子同士の話もしたかったわ。ななちゃんはそのままでいいのよ。あなたらしく、明るく楽しく、自分の思い通りに生きてね。時代と環境を楽しんで。呼んでくれたらいつでも会いに来るから、また一緒に話しましょう。ななちゃんだーいすきよ。」
あと、おばあ様はお豆類が好きだったようで、ななさんと一緒に食べたいとおっしゃっていました。
枝豆でも、甘納豆でもなんでもいいようですので、おばあ様の分のお茶も用意して、一緒にティータイムを楽しまれてはいかがでしょうか。
「おばあちゃんお茶入ったよ」というと、きっとおばあ様はそこに来てくださると思いますので、
見えなくても、今も愛されていることを感じてみてくださいね。
以上になります。
ありがとうございました。
答え合わせなどをしていただけたらと思います。よろしくお願いします。
リビアング様
見て下さりありがとうございます。
何度読み返しても、間違いなく祖母でしかなく
今でも涙が止まりません。
祖母はまん丸顔の小さな方でした。
怒った所を見たことがなく、奥ゆかしく
みんな祖母が大好きでした。
祖母は編み物が好きで、冬が近くなると
毛糸の靴下を作ってくれました。
わたしにはピンク、弟たちには緑や青など
本当に色とりどりの毛糸で作ってくれました。
うちは兄弟が多く、お小遣いなども貰ったことがないことを知っていた祖母は
わたしにこっそり1000円札を折りたたんで
お母さんには内緒ね。とくれました。
申し訳ない気持ちと嬉しい気持ちだった事を
今でも覚えています。
話口調が祖母のままでした。
わたしを呼ぶ時〜?と上がり気味で呼ぶんです。
その言い方が大好きでした。
祖母のために日舞を幼少期から習い
発表会は必ず祖母が来てくれました。
私の発表会が楽しみだといつも喜んでくれて、祖母のために10年以上続けました。
祖母は昔の人ですので、学校もきちんと通えなかったと言っていました。
自由過ぎるわたしに少し驚いていたのではと思うくらいです。
自分の思い通りに生きて欲しいと聞いて
安心しました。
入院中、私が結婚できるかだけが心配で心残りだと言っていたので、今結婚もせず子どももいない私を見たら悲しむのではないかと思っていたからです。
何もしてあげられなかったのは私の方です。
小さい時から私の1番の味方でいてくれた
祖母に感謝しています。
色々してもらってきました…
ありがとうも、恩返しも何も出来なかった事が
10数年経っても心残りです。
お豆とお茶用意して
お話します。
本当に本当にありがとうございました。
>>28
ななさん
答え合わせと、素敵な思い出話までして下さりありがとうございます。
体が亡くなると触れ合ったりすることは出来なくなるけど、
ありがとうは今からでも言えますね。
おばあ様、素敵な方でした。
ありがとうごさいました。
>>13
あやこさん。お待たせしました。
私の前に現れてくださったお父様は、色白でたまご型の顔、痩せ気味の方でした。
杖を使われていたか、または杖にもたれかかるように、少し斜めに立つ癖のある方のように見えます。
体の重心が何か、左に寄っているみたいです。
少し痰の絡みも感じます。
お酒は日本酒か焼酎か、ガラスのコップで透明のものを飲まれているみたいに見えました。
お仕事は比較的時間に規則的な、公務員とか銀行員とかそんな感じの、そして「人の役に立つ部署」とご本人はおっしゃられています。
テレビの真正面の席ではなく、テレビに向かって左側の席から、相撲、競馬、野球など中継の番組を見るのがお好きだったようです。
また、新聞を地べたにおいて、虫眼鏡を使って見ている姿も見せてくださいました。
あやこさんとの思い出を伺ったところ、祝儀袋の水引みたいな細いリボンを見せてくれ
子供のころなので肩叩き券とかなのでしょうか、何かあやこさんがお手製のカラフルなチケットを紙に包んで、その細い水引のようなリボンで結ばれたものを大切に持っていらっしゃいました。
また、赤と青のランドセルも見せてくださいましたが、その意味が私には伝わってきませんでした。
お父様は、几帳面でこだわりが強い部分があり、団らんの時に、時々気難しい顔になったようです。
ただ、大きな声で怒鳴るようなことがないため、何で不機嫌なのかが伝わりにくかったみたいです。
メッセージを聞いてみました。
お父様、続けてしゃべるというより、考えるように、言葉と言葉の間に、間を持たせるような話し方をされています。
「ちょっと厳しくしすぎたかもなぁ、こんな子になってほしい、こんな風に育ってほしいという 思いが強すぎた。ごめんなぁ」
また”としこ””さとこ”のような響きの名前が聞こえてきました。何かお伝えしますか?と尋ねたところ
「大丈夫だよ~。苦しんでなかったから」と言われました。この世を去られた瞬間のことを言われているのだと思います。
あや子さんが気にされていたことも聞いてみました。
「心配も応援も なにもないだろう。あや子の”本質”・・・は何にも変わってないんだから。だから安心して見てるよ。」
お父様は現在のあや子さんに絶大な信頼をお持ちのようです。自慢の娘さんなんですね。
以上になります。ありがとうございました。
細かいシーンが色々見えたので、それについても検証していただけるとありがたいです。
よろしくお願いします。
リビアン様
ありがとうございます。
視てくださった父の姿は歳を取ってから亡くなるころの姿だと思います。
左に偏っている、というのはよくわかりませんが色白で若いころは太ってはいないものの太鼓腹でしたが年々痩せていってしまいました。
痰の絡みは食道癌だったことからだと思います。
お酒もおっしゃるようにもっぱら焼酎の水割り、あるいは日本酒を少々で、胃ろうの処置をする直前兄が父に「今日はいいだろう」と最後に一緒に吞んだと聞きました。
仕事は残業もほとんどない規則的な仕事でした。
仕事内容は人の役に立つと言えるのかわかりませんが、定年前後(定年後も同じ会社に勤めていたので)はいってきたばかりの若い社員さんに教えることも多かったみたいです。
テレビに関してはどちらかというと右側からかもしれません。
でも一番好きだったのは野球中継でした。
新聞を読むとき虫眼鏡は使いませんがいつも床に置いて読んでいたように思います。
思い出に関して私には記憶にありません。
でも水引はとても身近なモノでした。
地域の産業でもあったので。
よくあるやったほうは忘れてしまうけれどしてもらったほうはよく覚えている、ということもあるかもしれませんね。
ランドセルの一件ととしこ、あるいはさとこの名前に思い当たることはありませんが私の名前は母から聞かされた話によると何かでいくつかの候補の名前をもらい、その中から読みは普通だけど字があまり使われていないものを選んだらしいです。
もしかしたらその候補に似たような名前があったかもしれません。(確か一つにさちこ、かなにかはあったような?)
そして確かに大きな声で怒鳴るようなことは一度もなく不機嫌な時は黙るタイプでした。
病気が判明してから亡くなるまでがあっという間で最後にあったのは亡くなる二日ほど前でしたが、最後の力を振り絞るように立ち上がって歩いたこと、そして別れ際温かい手で固く握ってくれたことを覚えています。
そして亡くなる前日の夜、母からこの一週間ぐらいが山だと電話がありましたが、一週間後にまた子供たちと一緒に帰省する予定でいたためその夜は帰省しませんでした。
その電話から半日ぐらい後、母からのたった一言「呼吸が止まった」と叫ぶような声での電話があったとき
何故前日の夜の電話の後で帰省しなかったのかと今も悔やまれます。
もう少し生きてほしかった気持ちがある一方でもう苦しまなくていいんだよね、生きてほしいというのは私たち残されるもののわがままかもしれない、という気持ちでした。
最期は自宅でしたがちょうど看護師さんが来てくれていた時に亡くなり、母にとってもその後の処置をすべて任せることができ、そんなタイミングで旅立ったことも父らしいなあと思っています。
父の言葉を聞きそういう人だったなあと思い返されます。
私が決めたことをそっと見守ってくれているような人でした。
いつも味方でいてくれた大好きな父です。
視てくださりありがとうございました。
>>28
リビアン様、お名前間違えてしまってすみません。
祖母がお豆が好きだったか
記憶があまりなかったので母に確認したところ
枝豆が好きでよく食べていたと
教えてもらいました。びっくりしました。。
重ねての御礼になりますが
本当にありがとうございました。
>>31
あやこさん
お父様の見せてくださる断片的なシーンをどう解釈するのか少し迷いがありましたので、
詳細な答え合わせをしてくださり、とてもありがたいです。
水引とプレゼントは別々の想念だったということもわかりました。
とても勉強になりました。
私も父の死に目に会えず、その時は後悔ばかりしていましたが
体を離れたらもっと自由にいつでもそばに来てくれて、そして魂は永遠だということが今ならわかります。
お父様は今でもあやこさんの見方でいてくれていますね。
こちらこそありがとうございました。
>>19
りささん。お待たせしました。
ひいおじい様だと思いますが、背の高い、そして鼻も高い、少し日本人離れをした顔のスリムな男性が来てくださいました。
髪とか目とか、もともと少し色素が薄い感じの方のようです。
ご先祖崇拝心の強い方で(昔の人は皆さんそうかもですね)ご先祖代々の当主の写真を飾られているのを見せてくださいました。
そして戦争で亡くなられた若い男性(少年に近い。ご兄弟ではないかと私は感じていますが)と、お母様かおば様か、中年の女性の写真も見せてくださいました。
ものすごく苦労をされた人生だったようですが、苦労を苦労と思わない楽観的なたくましさのある方です。
地面の石と、山の斜面から見下ろすような森の風景を見せてくださいました。自然か環境に関連するお仕事だったかもしれませんし、そのような場所に育たれたのかもしれません。
頑固でまじめな方ですが、本人の自覚なく天然なところもあり、周りの方も「なんか憎めない」という印象だったみたいです。私の印象では、見た目は違いますけどちびまる子ちゃんのおじいちゃんみたいな感じです。
そして、「ガタがきた体を十分に使いこなし、天寿を全うしたんだ」と誇らしげに語られています。
会いたかった、先に天国に行かれた方にもお会いすることが出来て大満足の様子です。
りささんとの思い出というか、りささんへの思いというのでしょうか。
どんぐりとか松ぼっくりとか、何か見つけるとズボンのポケットに入れておいて、
「ほい」とか「ほれ」とか出してりささんに見せるのがお好きだったみたいです。
お菓子なども、わざわざポケットから出してくれたりしていたのではないでしょうか。
わざわざ隠して、パッと出した時のりささんの表情を見るのが好きだったようです。
ひいおじい様からするとりささんは幼い子供のままのようで、何かメッセージを伺っても
「ほうほーう」とか「ようよう~」とか(あらあら、まあまあ、みたいな感じ)でニコニコと微笑まれて
りささんに「よく来てくれたなぁ」と喜んでいらっしゃいます。
(こちらがお呼びしているのですけど、こういうところがひいおじい様の天然な可愛いところですね)
そして今日も、何かやるもん(あげるもの)あったかなぁ、とポケットの中を探っていらっしゃいました。
特に多くは語られませんでしたし、「あらたまった説教」みたいなことが苦手な方のようで、これというメッセージは受けられませんでした。
ただ、「来てくれた」(笑)ことをとても喜ばれている様子ですので、時々はりささんがお呼びしてあげるのが一番いいのかなと思います。
以上になります。ありがとうございました。
答え合わせをしていただけたらと思います。
>>34
リビアン様、視ていただき本当にありがとうございました。
外見からして、ひいおじいちゃんそのものです。背も高く、鼻も高いし、足が長くて、近所のおばあちゃん達から「いい男」と言われていたそうです!
そして、写真に関しても
私の実家の座敷にいくつも飾られていました。戦死したという、ひいおじいちゃんの兄弟の写真も確かにありました。
中年の女性の写真も、座敷にありましたので
もしかしたら、ひいおじいちゃんのお母さんか、先に亡くなったひいおばあちゃんかもしれません。
まさに、私の実家は農家で海と田んぼに囲まれた所にあり、近くには山もあります。ひいおじいちゃんも農業をしておりましたので自然に囲まれていました。
私の祖母の話によると、
ひいおじいちゃんは、いつも感謝を口にするような人で、祖母がひいおじいちゃんの介護をするようになった時も「悪いね」「ありがとうね」と言っていたそうです。
とてもおだやかで、皆んなから愛されているひいおじいちゃんでした。天然というのもすごくわかります!
あと、、びっくりなのが
「ちびまるこちゃんのおじいちゃん」というワードが出てきた事です!
私たち姉弟は、ひいおじいちゃんの事を「ともぞうじいちゃんみたいだね!」とよく話をしていたからです!!驚きました!
そして、私はひいおじいちゃんと真面目な話はした記憶はなくて、一緒に水戸黄門を観ていたら、いきなり「ほれっ!」といってお菓子を私にくれました。いつもポケットに飴が入ってたり、甘納豆が入ってたり。
「ほい!」とか「ほれ!」とか、ひいおじいちゃんのよく言っていた言葉です。
そしてよく「へへっ!」と笑っていました。
両親と祖父母がバリバリ働いて家にいない時に大嫌いだった学校から帰るとひいおじいちゃんが、相撲や時代劇を観ながらお菓子を食べていて、ホッとしていたのを思い出します。いつも「そこ」にいる安心感です。そして、「りさ!ほれっ!」とお菓子を出してくれました。
ひいおじいちゃんの替え歌を作ってよく姉弟で歌っていました。
今でもたまに歌います。笑
最期、亡くなる前日に運良く私は仕事の休みを利用して病院にいるひいおじいちゃんに会いに行けました。
動かず、喋れないおじいちゃんの手を握ったらギュッと強く握り返してくれたのは忘れることが出来ません。
ひいおじいちゃんの、自転車に乗る姿や、ふんどし姿、「へへっ」と笑う姿が今でも鮮明に思い出されます。
たまに会いたいなぁと携帯に入っている写真を眺めながら、ひいおじいちゃんの替え歌を歌ったりしています。
天国で大満足でいてくれてとても嬉しく思います。読んでいて涙が溢れてきました。
ひいおじいちゃんを感じることができました。
私がひいおじいちゃんをこちらにお呼びするというのは、
具体的にどうしたらよいのでしょうか?
お話かけてみる、思い出す、というような感じでしょうか?
視ていただけて、本当にありがとうございました!!
>>35
りささん
詳細な検証をありがとうございます。
ひいおじい様はいつもそばにいらっしゃるのですが、どうしても私たち肉体を持つ魂は、無意識に皮膚で境目を作ってしまっているところがあるので、ひいおじい様のような肉体のない魂の方はなかなかふれあいが出来ないようです。
「来てくれている」ということを意識して、そのうえで写真を一緒にながめたり、話しかけてりしてみるのがいいと思いますよ。
ありがとうございました。
リビアン様、はじめまして。
やすよ 46歳です。
中学生の時からの付き合いがある同い年の友人(女性)
が11年前に亡くなりました。
友人と最後に会った日からわずか1ヶ月ほどで、突然の別れになってしまいました。メッセージがあれば教えていただきたいです。よろしくお願いします。
>>37
すみません。確認不足で失礼しました。
また募集があった際に、依頼させていただきます。
>>20
ゆかさん。お待たせしました。
実は今までで一番手こずったかもしれません(笑)
お父様、最初は少しお若いころの(ゆかさんたちが子供のころの)姿で、遠くの方に現れましたが、
なかなか近くに来てくださいませんでした。
背はそんなに高くないけどがっちりとした体形で、少し浅黒いお顔の、もしかしたら黒い眼鏡をかけられていたかもしれません。本当に遠くて・・・。
口をぎゅっと横につむいで、少しこわばった表情でした。
お父様は愛情表現が苦手で、また人の愛もなかなか信じられないようなところがあり、そのせいで少しDV気質のようなところがあったみたいです。カッとなりやすく、ちゃぶ台返しではないですけど、それに近いような感じがあったのではないでしょうか?
そのことをずっと気にしておられて、自分なんかは家族に許される存在ではない、と、なかなか頑なな感じでした。
子供のころのゆかさんに、そんなに強くではないと思いますが、ついうっかり感情のままに頭の上からゴンってゲンコツをしてしまい、(あっ、しまった!)と思った時にはもうゆかさんが泣き出していて、謝るチャンスも逃して、それもいつまでも気にされているご様子でした。
子供たちのことを愛していても、どう表現していいかわからない。たまに父親らしいことをしよう、とか、
子供たちを楽しませてあげよう、と張り切って何かを企画しても、つい自分の方が夢中になってしまい子供たちを放置してしまうような、そして子供たちが少し引いてみている感じも背後に感じ取っていたようです。
お年を召されてからのことが何も伝わってこないのですが、胸が苦しく、少し背中の痛みも感じたので、肺がんとか、そのようなご病気だったのでしょうか。このあたりはよくわからず、もうしわけありません。
ゆかさんを愛していましたか?と聞いたところ、それはもう可愛かったと。七五三のタイミングかなにか、幼いゆかさんが髪を短く、顔に沿うような形にカットされていたことがあり、もうその時の幼い顔や表情が可愛くて可愛くてたまらなかった、と、そのお顔と、愛おしい感情までリアルに伝えてくれました。
それでもやはり、年を取り子供たちが成長するにつれ、後悔の念みたいな、自分だけが未熟で取り残されているような、そんなものがずっと引っかかっていたようです。
「かわいかったよ」「たいせつだった」と、ひとことひとことは短く、語尾が途切れるような話し方をされます。”愛”という表現はすごく抵抗があるようで、使われませんでしたが、ゆかさんを愛するその感情は私には伝わってきました。
実はお父様、時々ゆかさんのところに行かれているようですよ。
ゆかさんがたまに、暖かい飲み物を飲みながらお父様のことを思い出して、小さくため息をつかれているようなシーンがありますよね。
それを見て「許されていない」と思って近寄れないようです。
「お父様のことを愛しているから、好かれていたのかと気にされて、また今回私を通して交流を望まれているのではないでしょうか」とお伝えすると
「おまえたち(なぜか”達”と言われています)が許してくれるなら、これからはもっと近くにいるし、もっともっと守っていく。約束する。」と言ってくださいました。
何か合図がありますか?とも聞いてみました。いつも左後ろから見てくださっているようですので、今後はもう少し近寄って、左肩に手を置く、と言われています。
左の後ろがほんのり暖かく感じたり、何か柔らかい雰囲気が感じられたら、お父様がそばに来ているということを思い出してください。
以上になります。
DV気質なんて書いてしまって、違っていたらとっても失礼なことですので先に謝っておきます。
ただ、お父様の後悔の念から読み取った情報ですので、どうかお許しください。
答え合わせをしてくださるとうれしいです。ありがとうございました。
外見は浅黒い感じです。
肺が悪く亡くなったのでビックリしました。
父が子供の頃に聞いたのが父も子供の頃複雑で、愛情表現の仕方がわからないと言っていたのを思い出しました。
子煩悩な部分もあったのですが強くないゲンコツも覚えてます。疎遠というのもあったのですが、私だけにそういう態度だったので嫌われてるのかなと思っていたのですがそういう理由だったのですね。
軽くですがDV気質は他人に言われた事がありそれで私も気づいたので、お気になさらないでくださいね。
たまに現状の事で落ち込んだ時に私父親に話しかける時があります。ため息というのも心当たりありました。
生前もっと話しておけば良かったなとも思っていたので、左の肩があたたかくなったらそばにいると思って話しかけてみたいと思いました。
家族も少なくなったので守ってもらえたらありがたいです。
当たりすぎていてとても嬉しくて涙が出ました。
今回みていただいて本当に良かったです。
父と話していただいてありがとうございました。